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アンガーマネジメントファシリテーター 久下渚(くげなぎさ)

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看護

看護

03/152019

プロとは何か

看護

プロとは何か
これを意識し始めたのは
私がまだひよっこナースのとき。
 
集中治療室で出会った、
 
とある大御所さまとの出来事から。
 
 
実は、超大御所有名人の
 
お母様を担当させていただいたことがある。
 
すぐに東京から駆け付けた大御所の方は
 
 
必死にお母さんに声を掛け、
 
 
さすったり、手を握ったり
 
 
何とか助かってほしいと
 
できる限りのことをしておられた。
 
 
そして
ひよっこな私に向かって
 
 
「看護師さん、
 
私は頭が悪いから
 
モニターの数字が
 
何を表しているのか
 
わからないんです。
 
教えてもらっていいですか?」
 
 
と、その方は言った。
 
えーっいやいや、
 
頭が悪いとかそうゆうことじゃなく
 
 
専門的なものだから、
 
そりゃわからないですよ
 
と思ったのだけど、
 
 
 
と同時に
 
この人はなんて腰が低いんだろうと驚いた。
 
身内が倒れて
 
不安で心配でたまらないときに
 
 
そうゆう振る舞いができるなんて!
 
 
しかもこんな私みたいな若造に。
 
 
この方を仰望しながら、
 
なんやらを答えた私だった。
 
 
東京から仕事の合間に
 
新幹線で通いながら看病し、
 
本当は
 
ずっとそばに居たかったと思う。
 
必死の治療の甲斐も虚しく、
運ばれてきてから数日でその方のお母様は
 
 
お亡くなりになられた。
 
 
 
 
残念ながら死に目には
 
遭わせてあげられなかったのだけど、
 
駆け付けたその方は、
 
やはりとても憔悴されていた。
 
 
仕事があるとのことで
 
憔悴されたまま
 
 
東京までとんぼがえりされた
 
 
次の日私は休みで、
 
たまたまテレビを見ていたら
 
なんとそのお方が
 
生放送に出ていらっしゃる。
 
 
出演者に突っ込みを入れたり
 
快活に進行を取り仕切り
 
いつも通りに振る舞われていた。
 
私は思った。
 
 
 
ああ、この方は、
 
 プロ なんだと。
 
 
 
プロ意識で仕事をしているのだと。
 
当時の私には、本当に衝撃だった。
 
 
身内が亡くなれば
 
悲しいし
 
辛いし
 
憔悴もする。
 
そんな感情に打ちひしがれ
 
何も手につかなかったり
 
立ち直れない人もいる。
 
 
当たり前の反応だと思う。
 
 
でも、この方は
 
仕事上での立場を持っている
 
いつものキャラを演じている
 
 
・・ように私には見えた。
 
私は知っていたから、
 
少しだけ元気がないように見えた。
 
 
だけど、何も知らない人はきっと
 
いつも通りに見えているだろう
 
 
そう、私はこの方に
 
 
プロとはこうゆうことかと
 
気付かせてもらった。
 
 
それからはいつも、
 
プロとは何かを考え
 
追求し続けながら
 
現場に臨んでいた。
 
これだ!
 
と一言では言えないけれど、
 
プロとは何かを自分に問うている人
 
勉強、追求し続けること
 
仕事に対するぶれない芯がある人
 
はプロ意識を持っている
 
のではないかと思う。
 
 
 
6.7年ほど前に歓迎会でこの話をした。
 
 
みんなにも
 
プロって何かを考えてほしくって。
 
 
今でもその話を覚えていて、
 
 
心に残ったんです
 
 
といってくれる後輩がいる
 
 
その考える姿勢が、
 
患者さんにも、本人の人生にとっても
 
利益となりますように。

08/182017

名前を覚えてくれなかったSさんの、最期の前の日

看護

【私の最後の担当患者さんだった、Sさん】

 

 

 

肝臓がんの末期のおじいちゃん、

Sさんが私の最後の担当患者さんでした。

 

 

私がシリーズで書いているこの内容は

主に終末期(エンドステージ)専門の病棟で勤務していた約14年前のお話です。

 

 

この病棟では7ヶ月しか私は居られなかったのですが、それは

逃げ出したといってもいいくらいに当時、消耗しておりました。

 

 

 

その時の最後の受け持ち患者さんのSさんに、心残りがあります。

今でも後悔しています。

 

 

 

 

Sさんは、私のことを「看護婦さん」と呼ぶ方でした。

どのナースに対しても「看護婦さん」と呼んでいた方でした。

 

 

仕事の日はSさんのもとに毎日顔を出し

そのたびに「Sさん、今日も久下が担当させていただきますね」

って声をかけるんだけれど、看護婦さんとしか呼んでくれなくて。

 

 

薬のコントロールについて指導したり、

特別に時間を取ってケアしたり、

 

 

生まれたばかりのひ孫さんを抱っこしたいけれど

病気が移ったらアカンからと嫁さんにきつく言われて抱っこさせてもらえない

それが一つとても悲しい

といったことを毎回話してくださったりと

2か月以上の比較的長いお付き合いでした。

 

 

なのになんでいつまでも久下さんって呼んでくれないんだろう?

 

 

呼びにくいのかな?覚えにくいのかな?

 

 

Sさんがいつまでも私の名前を覚えてくれないのは

私の力不足ってことなんだろうか

 

とか、

 

なんでこんなに毎日関わっているのに

覚えてもらえないんだろう

 

私がもうすぐ辞めるから、

そういうのがなんか患者さんに伝わってしまってるのかな

 

って思ってみたり

はたまた

 

Sさんは人の名前に興味がない人なんじゃないかな

 

とか

 

一生懸命やってる割に名前を呼んでもらえない

 

 

ということに私、執着していたんですね。

つまり、心のどこかで見返りを求めていたのでしょう。

 

 

しかし、もちろん私の仕事最終日まで

Sさんにはいつもと同じように

関わらせていただきました。

 

 

そして、私はそのままいつものように、Sさんに

「じゃあ、Sさん、私帰りますね」

とだけ言いにベッドサイドまで行き、

それ以上は何も言わず仕事を終え

職場に別れを告げました。

 

 

そうなんです。Sさんには、辞めること、言いませんでした。

私が辞めると言ったところで、

いち看護婦さんが居なくなるだけなんだから

わざわざ、もったいぶって言うことでもないか。

 

そんな斜に構えたような、ひねくれたような

気持ちがあったのは確かです。

 

 

 

 

 

 

 

それから私は、次の新しい職場から

それまでとは全く畑の違う

集中治療、救急に携わっていくこととなります。

 

 

しかし、あの終末期病棟から逃げ出した自分に

どこかで納得がいかず

すでに救急、集中治療に携わっていたのにも関わらず

癌看護の看護協会の研修などにも名乗りをあげ

参加していたのでした。

 

当時の師長さんには、優しく理解してもらえたけれど

私、中途半端なことをしていたなあと今でも思います。

 

 

 

それから月日が流れ、1年ほど経ったとき

終末期病棟でお世話になっていた先輩と会う機会があったのです。

 

 

田中さん(仮名)というよくある名字の先輩ナースでした。

その先輩ナースから、Sさんの話を聞いたんです。

 

やはりSさんは田中先輩の名前も最期まで呼んでくれなかった

って、先輩も言っていました。

田中って覚えやすい名字なのに、

ああ、Sさんってやっぱりそういう方だったんだな、

ってなんか妙に納得し、先輩もそうだったんですね

とかなんとか話しながらだったんですが

先輩はこう続けました。

 

 

「久下が辞めてから、Sさんどんどん弱っていってな

2週間ほどで亡くなりはったんやけど。

 

Sさんも、死の間際はもう、寝たきり状態で

体交(身体の向きを変えること)も自分でできなくて

介助でしてたんやけどさ、

 

実は亡くなる前の日にな、

何と自力で廊下まで出てきて、

廊下の前の洗面所を覗いてる姿を発見したのよ!

足もと、ふらふらさせながら!

 

私慌てて、【Sさんどうしたんですか!?】

って駆け寄ったんよ。

そしたらSさん、なんて言ったと思う?」

 

 

 

 

 

【ああ、看護婦さん。

久下さんはどこに居ますか?】

 

 

 

 

って言ったんよ。

 

わたし色々その時びっくりしたんやけども、

Sさんはもう逝く日が近い

それがわかってな

【Sさん、久下はな、今、夏休みやねん。

はよ仕事戻ってこいって言っとくわね】

って、さ、ホンマのこと言われへんかった。

 

 

あんたSさんに、黙って辞めてったんやな」

 

 

 

と、聞かされたのです。

 

 

 

 

 

 

まさか、Sさん。

覚えてくれてたんだ。。

 

泣かずにはいられませんでした。

 

 

 

 

 

このシリーズ、書いてる私が思い出して

毎回胸が苦しくなる、

自分のあまりの不甲斐なさに。

 

 

 

 

最期の力を振り絞り

私を探してくれていたSさん、

ごめんねSさん。

私はSさんから何にも受け取れていなかった。

私のモノサシはなんとくだらないことか。

名前を呼んで欲しかったなんて

私はなんと幼かったことか。

なんて申し訳ないことをしたことか。

それは仕打ちにも近いことだったのではないか。

大ばか者だ。

 

 

 

 

 

 

亡くなってからしか、気付くことのできなかった

愚かな私ですが、今となっては

Sさん、気付きをくれてありがとう。

と、感謝もしています。

間違いなくその後の私の看護観に変化を与えてくれました。

 

 

そして、田中先輩、私に伝えてくれてありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

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08/152017

最期まで、否認していたTさん

看護

【最期まで否認し、怒りをぶつけて亡くなっていったTさん】

 

 

私が終末期の病棟に異動したばかりの頃、

このTさんとの関わり方がわからず、非常に胃の痛い毎日を過ごしていました。

 

 

Tさんは、ナースステーションの隣の個室に

入室されていた、40台の肝臓がん末期の患者さんでした。

 

 

18歳と20歳の娘さんが居て

Tさんと同い年の旦那さんが居て。

ごくごく普通の家族構成の方で

そして

もともとは近くの比較的大きな市立病院で働いていた

病棟師長さんでした

 

 

彼女は肝硬変からの肝がんを患っていました。

お腹は、まるで双子妊娠後期のように腹水でパンパン

なのに体はやせ細り、全身カサカサ。

そして眼も黄色く全身はドス黒く

口臭、体臭も特徴的な

典型的な肝がんの末期患者さんそのものでした。

 

 

 

 

彼女は明らかに私に、きつく当たっていました

 

 

針刺し予防のために

全患者さんに

注射、採血は翼状針で注射をするという決まりだったのですが

それすらを拒み、利尿剤の注射を普通針でやれ

と、強く要求したり。

(確かに、C型肝炎やB型肝炎ウイルス性の癌ではないので、感染らないのですが)

    【翼状針】

   【普通針23G】

 

 

「Tさん、ごめんね、翼状針でします。」

と、こちらが意思を通した時も、

「それなら空気を入れてギリギリのところまで入れなさいよ」

と注文される。

1滴たりとも利尿剤を無駄にしたくないという思いが

強かったんでしょう。

そして

医療従事者でしたから、

C型肝炎やB型肝炎からの癌ではないから

万が一針刺し事故をしても、感染らないとわかっている、

そのうえで注文している感じがある方でした。

 

 

また、利尿剤の反応が悪く、尿が出ても10CC。

そんなだったのですが

(もちろん肝がん末期なので利尿剤は殆ど効きません)

 

 

「オシッコ出ないじゃないよ!あんたの注射が下手くそだからでしょ!!」

ポータブルトイレを蹴飛ばしながら

そんな風にも言われました。

  【ポータブルトイレ】

 

 

しかしながら、彼女は医療従事者なので

利尿剤がもう殆ど効かないことも分かっていたはずでした。

 

 

検温やケアに行った際、話しかけても、全くの無視。

ある日はこんな事を仰られました。

 

「なんでこの私が、あんたみたいな新人に看てもらわないといけないわけ?!」

「なんで私が、こんな目に遭わないといけないわけ!?」

 

 

でも私は何も言いませんでした。

つとめてつとめて、どの患者さんにも同じように

振る舞っていました。

 

私に言うことで、何かTさんの気持ちが楽になるなら

その役は引き受けよう。

 

自分の状態を受け入れられないんだな、Tさん。。

 

そんなふうに思っていました。

でも、私も一人の人間でしたから

毎日毎日Tさんからぶつけられる気持ちは

正直、苦痛でした。

 

 

Tさんは家族の付き添いがない日は

5分10分おきのナースコールでした。

でも、ご家族が居ても、結構な頻度でナースコールは押されていたのでした。

 

 

娘さんや旦那さん、誰かしらご家族がついていても、

Tさんの私に対する口調や態度は変わりませんでした。

 

 

家族はただ、ため息をつきながら、

Tさんの発言や態度、その光景を

ぼーっと眺めている

そんな感じでした。

 

 

 

 

 

何やらご家族に対しても大声で怒鳴っている

そんな声がよく、部屋から漏れていました。

大きな音がして、どうされましたか と訪室すると

何かが投げつけられたかのように散乱し、そこにいたご家族は

疲れたような、悲愴な、何かもう諦めたかのような

何とも言えない顔をしている

 

 

そんな光景を目にしたこともありました

 

 

 

 

私はなぜかTさんの担当になることが多く

Tさんのナースコール対応だけで

業務が全く回らない、

7時半に出勤し、帰りは21時前

そんな日も少なくありませんでした。

 

 

ある日Tさんがまたいつものように、

ナースコールを押されました。

 

 

たまたまTさんの部屋の前で酸素ボンベの流量計交換をしていた私

 【流量計交換】

 

交換に必要なスパナを持っていたのですが

スパナをその辺に放置できないので

ポケットにしまいTさんの部屋を覗いて伺ったのですね

 

 

「Tさん、ナースコール、どうされましたか?」と。

 

 

するとTさん、私のポケットの先から出ていたスパナの先端を見て

パニックになりました。

 

 

「誰かきてー!!!久下さんに殺される!!!!!」

 

 

そんな風に叫んで、必死にナースコールを押し続けられました。

 

 

(…しまった。)

 

 

私はそう思いました。

 

そんなつもりじゃなかったけれど

スパナをポケットに入れてしまっている

先輩ナースも、よくみかけましたから

まさか、そんなふうに患者さんに言われるとは思いもしていなかった

患者さんからはそんな風に見えるのかと

 

 

そしてTさんは自覚していたのか?と

 

 

私に何か、仕返しされるかもしれない

それくらいのことを

私にしているのだと

 

 

いや、それはわかりませんが、瞬時にそんなことも思いました。

 

 

 

Tさんは血中アンモニアが高くなっていたのかもしれません

もう私もその時のTさんの血液検査の数値のことまでは覚えていません。

 

 

その時は

先輩かほかの誰かに対応してもらいましたが

Tさんはいつまでも私のほうをみながら

すごい形相で

久下さんに殺される

って言い続けていました。

 

 

 

 

それからほどなくしてTさんは亡くなりました

 

 

 

ご家族は

 

 

 

ようやく逝ってくれました。

家内が貴女には、大変ご迷惑をお掛けしました。

許してください。

 

 

そう、一言、私にのこされました。

 

 

ようやく。。。

真意はわかりません。

私は、何も何も 言えませんでした。

 

しかし、私も肩の荷が下りた

 

そんな思いが片隅にあったのは事実でした。

 

 

 

 

 

 

Tさん、最期まで受け入れられなかったのでしょう

Tさん、孤独だったのでしょう、納得なんかいかなかったのでしょう

 

最期の最後まで満たされることはなかったのでしょう

 

否認し続けて、怒りをぶちまけて、「なんで私が」と

亡くなられていきました。

 

 

 

Tさんを見送られた安堵にも似たご家族の表情が

今でも忘れられません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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08/082017

忘れられない死に方をした患者さん Mさん

看護

【お地蔵さんのようなMさん】

このシリーズ、書き続けていきたいと思いながら、今頃2回目になりました。

人の死に方について、興味深く考えるようになった一つの例を今日も書かせてください。

 

 

私が看護師としてまだ2.3年目のころに、部署の異動がありました。

終末期(エンドステージ)+検査入院科の患者様が入院される病棟という

すごく煩雑な業務の中に飛び込むことになったのです。

 

終末期というのは命の終わりを迎えられる人が殆ど。

患者さんにはもちろんのこと、ご家族のケアや関わり方も濃厚になるという場。

 

そのような患者さんの横で、かたや、バタバタと日帰り・2泊3日の検査入院患者さんが居るという状況でした。

今ではきっと考えられないでしょうね。

まだ、緩和医療チームが立ち上がったばかりの時代でした。

 

 

 

そこで、とても穏やかなMさんというお地蔵さんのような

男性の患者さんとの出会いがありました。

胃がんの末期、余命宣告もされている患者さんでした。

 

とはいえ、まだ少し流動食なら食せる、今すぐ死に向かっているわけではない。

そんな状態でした。

 

本当は食欲が落ちているからなのに

「流動食、おいしくなーい。ミキサーーにされているから何が何や、ようわからん」

食事を残したら、おちゃめにベロをだして、そんな言い訳して見せるのでした。

 

 

検温やケア、IVHの管理に向かうと

いつもニコニコ私を迎えてくれて、楽しい話を穏やかに、たくさんしてくれました。

 

私が2.3日休むと、寂しかったとか、どんな休日を過ごしてきたの?とか

本当に孫を見るような穏やかな表情で

私の話も聞いてくれた、聴き上手なおじいちゃんでした。

 

 

 

私は、ナースという立場でありながら

この患者さんに癒されていたんですね。

 

何にもなくても、Mさんのところに、しょっちゅう顔を出していました。

 

 

けれども徐々に食せるものは流動食から、経口栄養補助飲料へ

補助飲料から、レモン水を口に含むだけになり、ついには

自分の唾液さえも呑み込めなくなっていきました。

 

みるみる痩せていき、体力も衰え、臥せがちになり、口数も減りましたが、

それでもまだニコニコ顔で私を迎えてくれていました。

 

 

Mさんは自分の唾液を呑み込まなくなってから、

ウォークマンで何やら一日中音楽を聴いて過ごされるようになったんですが、

何を聴いているのかまではわかりませんでした。というより

なんとなく想像がついたから、Mさんには何を聞いているのか、聞かなかったのです。

 

 

徐々に不可逆的に、やはりMさんはもう、にこりともできなくなりました。

ずっと寝たきりになりました。

日中に、Mさんの奥さんがウォークマンを

繰り返し、繰り返し、操作して聞かせてあげている。

そんな姿をよく見かけました。

 

 

奥さんが帰られたあとに、

寝ているのか起きているのかわからないMさんの

枕もとのウォークマンがまだ回り続けていました。

 

痩せた耳からイヤホンが外れそうになっていたのをみて、

つけてあげよう

そう思って近づき、私はイヤホンから流れる音楽を、

聴いてしまいました。

 

聴かずにはいられなかったというか、確かめてしまったのですね。

 

 

 

 

 

 

やはり、お経でした。

 

 

 

 

 

ああ、Mさんもか。私はそう思ったのです。

Mさんもやっぱり逝かれるのか。と。

 

この時とった私の行動は決して褒められた行動ではないのですが

「Mさん、わらってください」

って 思わず、痩せた頬の口角をつまみました。

 

するとわずかに目を開け笑ってくれた、Mさん。

 

それを見て思わず、私はすかさず、

「M、さん、本当に、仏さまっているのかな?」

なんて、声をうわずらせながら聞いてしまったんですね。

Mさんの最期を受け入れたくなかったのかもしれない。

 

 

Mさんは言いました。

 

 

 

 

 

【ここに】

って。

 

 

 

 

 

カラカラの聞こえるか聞こえないかくらいの声で

自分の胸に手をあてて言いました。

 

 

ぐうっと胸が、のどが苦しくなって、私は涙をためてしまいました。

ああ、Mさんはなんて穏やかな最期を迎えようとしているんだ。

本当にお地蔵様みたいだ。

Mさん、くだらないこときいて、ごめんなさい

わたしはなんて自分勝手な思いを押し付けてしまったのか。

受け入れていないのは、私だ

そう思いました。

 

 

「そっか。そうなんですね。ありがとう」ってそれしか言えず

手を握って

病室を後にしました。

 

 

翌日、Mさんはご自宅に帰られました。

奥さんと本人の強い希望で。

 

そしてMさんは2.3日後家で息を引き取りそうになり

救急車で病院に戻ってきましたが

救急外来到着時には亡くなられていました。

 

それを知ったのはお葬式が済んで、しばらくして

奥さんが挨拶に来られたからでした。

 

その時に、お礼を言いに来て下さったんですね、私にと。

 

実は見ていたんだと。

口角をつまんで、笑ってください

って

言っている私とMさんのやり取りを。

 

そのやり取りをみて、ほほえましかったこと

主人が愛されていること、とても大事にケアしてくださったこと

嬉しく思いました、私も救われました

ありがとう

って言ってくださいました。

 

 

あとで婦長さんには「こら~」っていわれたんですが

Mさんと私の関係性が、

遺されたご家族の、ほんのささやかな救いになったのなら

それは貴女、良かったね

と。

 

 

私はこの病棟に配属されてから実は体調を崩してしまい

結局7ヶ月ほどでこの病棟、病院を去ることになりました。

 

 

なにせ

学生のころに母親と同じ年齢の末期がん患者さんを担当させていただいたとき

苦しくて、泣いてばかりいた私でしたから。

 

 

たった7ヶ月しか居なかったけれど今でも鮮明に思い出せることばかりです。

07/252017

死ぬと決めたら死ねるのか 忘れられない患者さん

看護

思い出深い患者さんの記録を残していきたい

常々そう考えていたのだが

 

が、実は
死ぬと決めたら
あっと言う間に死んでいった
患者さんを3人見たことがあるのだ。

これって
ナースあるあるではないだろうか。

3人とも深く印象に残っているが
今日書くのは
そのうちの1人の患者さんの話。

*・*・*・*・*・*・*・*・*・*・

私がナースになって2年目。
そこは希少性の高い病棟であったので、
ここでは
最小限の情報に留めたいと思う。

60歳になったばかりのYさんという
男性患者さんがいた。

9割が長期入院患者さんで
長い方は10年越えという方も多く居た。

Yさんもその長期入院患者さんの
1人であったからか、
割と自由にして
入院生活を楽しんでいるように見えた。

性格は寡黙で、
無駄話をしない職人気質で
(実際、職人さんだった)
気難しいように感じられる印象は、
ただの照れ屋さんで。

下半身不随だったが
入院生活は立派に自立していた方だった。

その病棟においては、毎年
お正月は自宅で過ごしてもらえるようにと
年末から帰宅できるよう
スタッフ皆で患者さんに合わせて
色々調整し、支援するのが恒例だった。

それは
状態が落ち着いている患者さんにとっては
唯一の、
正々堂々と長期自宅外泊ができる機会だった。

件の
Yさんは、もう何日も前から、
大きなボストンバッグに外泊の準備をし

『去年は家の都合で帰られへんかったけど、
今年は帰れるねんわ』

と自分から
嬉しそうに、静かに話してくれた。

Yさんのそんな嬉しそうな顔は初めて見たし、
自分から話されるなんて
滅多にない事だったので、
Yさんの抑えきれない
嬉しい気持ちが伝わってきて、
私も暖かい気持ちになった。

Yさんのご家族ってどんな方なのかな?
まだちゃんとお会いした事はなく
想像しかできなかったけれど、
数年ぶりの我が家に帰り、
家族と過ごす事ができる
Yさんの気持ちを思うと、
こちらも本当にやり甲斐を感じたし、
ただ純粋に嬉しかった。

しかし12/28に出来事は起こった。

予定時間になっても
Yさんの家族の迎えが来ない。
電話をしても繋がらない。

心配そうにYさんは、携帯を膝に乗せ
車椅子でウロウロ、
あっちに行ったりこっちに行ったり
落ち着かずに所在無げであった。

そして昼ご飯前ギリギリになり
ご家族から病棟に電話があった。

『家族全員がインフルエンザにかかったので
外泊は無かったことにして欲しい』と。

それをナースから伝えられたYさんは

穏やかに笑っていた。

外泊を心待ちにしていたYさんのベッドは
布団もきちんと畳まれ
床頭台周りも綺麗に整頓されていたが、

また、そのままいつもの入院生活に戻った。
急いで手配した病院の昼食には
手を付けられなかったのか、
そのまま残っていた。

Yさん、残念やったね

私は夕方Yさんの部屋に行き
声をかけずにいられなかった。

するとYさんは

『もういいんや、解ってた』

と言う。

うん…え、⁈どういうこと⁇

22歳そこそこの純粋過ぎた私は
しばらくYさんの発言の真意を
理解できなかった。

それからYさんは一切、
微笑のかけらさえも
見せてくれることはなくなった。

発語も無くなった。

視線も合わなくなった。

車椅子で自立していた生活が、
全くの介護状態となり
目は虚ろになり

誰にもそれは止められることなく
不可逆的に悪化の一途をたどり

Yさんは
あっと言う間に
1.2ヶ月で亡くなった。

私も側に居ながら
信じられなかった。

何とかYさんの声が聞きたかった
が、それすら叶わなかった

まだ、60歳そこそこだったのに

あんなに元気にしていたのに?!

そんな事ってあり得るの⁇⁈

Yさんと仲が良かった患者さんが

『Yさん.可哀想にな。
Yさん労災保険やら傷害保険やらな、
色々毎月凄いお金もらってはるねん。
だけどな、全く自分の為に遣う事なく
死なはった』

と、何気なく私に言った。

どこまで何が真実かはわからないけれど
家族の関係性も本当のところは
わからなかったけれど

やりきれない悲しさと
何か、見てはいけなかったものを
見たような
後ろめたい気にもなった私は
何も返答できなかった

人は
生きる事をやめると決めたら
死ぬことができる

という事を
この経験から
なんとなく体感するようになる。

Yさんはあの時
もしかしたらあっと言う間に鬱状態に
陥ってしまったのかもしれない

いや、決めたのかな、
自分の人生の終わりを

Yさんの死に、
意味を感じずにはいられなかったから
今も鮮明に覚えている

 

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