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アンガーマネジメントファシリテーター 久下渚(くげなぎさ)

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死生観

死生観

07/252017

死に方を考えるハードルの高さ

死生観

それはさておき

皆さん死について、

どこまで理解していますか?

死による身体の変化

とか、そういうことでもいいです。

(前回記事のシリーズ3です。

前回記事はこちらから)

日本人の

多くの人が死を直視できないでいる。

それは何故かということを

私なりに考えてみました。

 

関連画像

 

 

命の尊さについては

学校で道徳かなんかで習うんです。

命の発生のメカニズムについては

生物とか、性教育とかで習う。

でも

死については細かく習わないですよね。

というより、色々な事を危惧して

タブー視しているんですね。

教育現場では。

死って不可逆的なんですけど、

蘇る

と思っている中学生もいるらしい。

学校での教育が

なされないままだから

死って

どこか対岸の火事のような、

他人事のような。

身近に

経験しない限り

自分に置き換えて考えるなんてことも

若いうちからはしないわけです。

だから死って何なのか

イメージつきにくいのは

当たり前なのかも知れませんね。

 

 

成長するにつれ徐々に

死は

不可避で不可逆性な現象で

寂しさ、悲しさ、喪失感も

ついてくるものだと理解はする。

でもタブー視されたまま

育ってきているから、

縁起でもないとか、

心のケアが必要とかで

直視できない。

 

 

ここで言う直視とは

死って何なんだろう

って普通に日頃から考える事なんですよ

そして、

生あるものは死があるという事実を

受け容れる。

ことなんです。

 

 

私が今まで見てきた多くの死には

皆んなが納得の死

というものは、

ほんとに、数える程しかなかった。

これは文化のせいか

教育のせいか

死に方のせいか。

そして死にはね、

遺族の後悔がつきまとう事が多い。

事実だけで言うと、

死んだらそこで生が終わりなんです、本人は。

(宗教観や考え方とかそういうのは抜きにしてね)

 

でも、

遺される側っていうのはまだ生きている。

遺されたものはね

罪の意識に似たような

後悔に苛まれることが多い。

 

これ、なんででしょうね?

あれでよかったのか、

もっとこうすべきだったのか

自分の選んだ方針はどうだったのか。

生きてるうちに、こうしとけばよかった。

とか。

死んだ人に直接私らが選択したことは

『どうやった?正しかった?』

って聞いてみて、評価してもらえたら

気が済むか、救われるか、

納得せざるを得ないのでしょうけれど

正解なんてわからないですよね。

選択が

正しかったかどうかなんて、

逝った者、死が間近に差し迫っている者は

こたえてくれないから。

 

だから正解は

やっぱり本人の人生なのだから

本人の意思を尊重することだ

思うのです。

 

もしものときに

その決断が下せるかどうか。

 

そして、その決断の後、

自分で自分を救える(納得させられる)か。

 

 

いつ死んでもいいように色々準備してます

って言ったってね、

自分も家族も

現実を目の当たりにしてしまうと、

揺れる。

 

それが人情というものですからね。

誰もが通る道なんです。

結局は

遺される人間にどうあってほしいか

というところも

含まれてくるわけなんですね、

自分の最期のありかたというのは。

 

特に年齢を重ねてくると

そういうことを本人は考え始める。

意思を伝えていても

でも、家族は

具体的にどうすればいいかという

段取りまではわからないんですよ。

 

私は、遺されたものに

後悔に似た罪は背負って欲しくないから

私の意思を尊重して欲しい。

それを家族だけでなく

協力してくれる医療機関にも伝えて

家族と医療機関で力を合わせて

私の最期の時を支援して欲しいと

いう事を考えている。

 

その方がきっと、家族は

救われやすい。ひとりで抱えずに

済むから…

それを体系化したい。

家庭でちゃんと教育していますか?

家族に教育できるだけ

自分には

死生観って備わっていますか?

 

いかに今

実のある生にするか。

はもちろんなんです。

だからそこは触れません。

シリーズ1.で書いたお金のこととか

そういう事も触れません。

 

私は体系化の為に

臓器提供の有無だけでなく、
延命治療を望む、望まないや、

どんな最期でありたいかを

ハードルなんか全然下げて、誰もが皆ポジティブに

記せる場があってもいい、

いや、
なくてはならない

と考えています。

 

 

次は突然死とグリーフケアについて

書きたいと思っています。

いつも、最後まで読んでくださり

ありがとうございます。

素敵な1日でありますように

 

07/062017

自分の望む最期の在り方

死生観

 

皆さんは自分の最期について

考えたことはありますか?

「いつ死んでもいいようにしています」
割とインテリジェンスが高めな方からは
よく耳にはする言葉です。
では、具体的に聞きますが、
自身がいつ死んでもいいように
どういう準備をされていますか?
チェック ○死後、親族が揉めることのないような
財産分与の準備
チェック ○経済的不安のないような保険、
永続的な収入の柱の準備
チェック ○遺される側の
悲しみを乗り越える強さ、精神的自立
を養っておく準備
理想としては
これらを準備し
何の心配もなくスッキリ死にたいものです。アッシュ
そうゆう準備万端な方は
ご自身が、どういう最期を迎えたいか
という事も
はっきり家族に伝えているのかなと
思います。
ところがね、
医療現場に居ると、
『家族は、患者自身の意思を、
今ひとつ理解していない最期の決定をする』
 
 
という齟齬をしばしば目の当たりにします。
もっと砕いて言えば、
『患者の本意ではなく
遺される者の本位で方針の決定をする』
ということがしばしば見受けられるんです。
ホスピスの現場でも、
救急の現場でもです。
だから
いつ死んでもいいようにと
準備していたことは、
ご自身の自己満足、独りよがりに
なりかねない
とゆうことがあるのです。
準備万端な人でも、そうゆうことが
起こり得るんです。
(でも世の中の大半の人は、そんな準備は
    できていないのが現実ですけどね。)
さて、
患者本人の意思と、家族の決定の齟齬は
どうして生まれるのか。
家族との関係性
価値観の違い
家族の意思と本人の意思がそもそも違う
最期まで諦めたくないという思い
混乱
などなど
様々な要因はあるでしょう。
※そんな話したことなかったから、
というのはここではもはや論外。
自分の最期のことは
希望できても、
いくら本人が希望していたとはいえ、
いくら家族とはいえ、
 
他者の最期を決定するのは
責任が重くのしかかる。
と、思ってしまう。
 
そこらへんに、
齟齬の生じる理由があるのか、
日本人の気質や文化も影響しているのか。
判断を迫られる家族の意思決定は
とにもかくにも消極的です。
ここで余談になりますが
実際、
「もう何もしないでください。それが本人の意思でしたから」
と決断した息子さん。
「あんた、なんて薄情な子なんや!!」
「最後まであきらめたらあかんやろ」
「もしかしたらまた
        よくなるかもしれないし」
って、親族から非難ごうごう。
そんな場面は少なくありませんでした。
医療従事者としては
良くならないから
そうゆう話をしているんですけれど
やはり、また元通りになると
本気で思われているのか?
そうなってほしいという
希望的観測からの発言なのか?
時に、よくわからなくなることがあります。
そこで張り切って聞きますが
皆さんは
自分の親や
大切な誰かが
死の瀬戸際にある時、
本人の意思に沿った決断が
できますか?

その前に、まず

自分の時はどうします?
どうしたいですか?

どうしてほしいですか?

普段から、家族や大切な人と

そうゆう話はしていますか?
なんとなくしている
ではなく、
ちゃんと、
どこまでやるか、やらないか
まで決めていますか?
病院や施設によっては、
入院時、全員に
もしものときに、どこまでやるか。
 
それを確認している病院もあります。
(そうゆうチェックシートもあるんです。
それは今度の機会に書きます)
どこまでやるかやらないか
ということに
イメージがつきにくい方へ。
◆じゃあ、貴方の望まない最期ってどんなんですか?◆
例1:のどから気管にチューブを入れて人工呼吸器をつける
鼻に入ったチューブまたはお腹にあけた穴から栄養剤を流す、
いわゆる植物人間にはなりたくない。
例2:80歳過ぎても心臓止まって、肋骨がバキバキに折れるような心臓マッサージはうけたくない。
※あくまで、よく耳にする望まない最期のイメージです。

皆んなね、
癌になったら…
とゆう話は割とよくしているんですね。
 
長患いする可能性があるし
日本人の死因の1位だからかな。
巷には癌の情報も多いしね。
でもね、意外にも
ホスピスですらですよ
 
ホスピスに来てからも、
どのように過ごしたいと
思っているのか、
最期にどのように亡くなりたいか
 
わからない状況が多いんですよ。
本人に聞いても否認されるし、
家族は更に、
それは触れてはいけないところ
だと思っている人が多い。
癌になり、
ホスピスに来てまでも
腫れ物に触るかのように
本人が希望する最期が語られない。
人間は皆、平等に必ず死ぬ
いつかはわからないけど、
癌であれ何であれ必ず死ぬんです。
今からネタバレ注意ですが
「君の膵臓が食べたい」
あれ読んだとき
あ、そっちで死ぬんや
って思いました。
そうゆうことなんです。

いやわからんか。。脱線、失敬。

人間は皆んな
死を前提に生きているわけだから
直視することを、
回避してはいけないんです。
ただ、死を前提であるとゆう
それに気付くのが遅いか、早いか。
で直視のダメージも全然違うんです。
人間、現金な生き物だから
病気になった時しか
そうゆうこと考えないんですよ。
そして病気になった時に
死を直視することは
まるで生を諦めたかのような感覚に陥る。
 
 
生に対する執着があるから
どうしても死を直視できなくなる。
そうゆう時に
直視するのはダメージが大きいんです。
だから元気な今のうちに、年齢関係なく
直視しておく必要があると思います。
死(最期の在り方)を直視することは
怖いことでも
ネガティブなことでもないんです。
むしろいかに実のある生にするか。
につながってくる。
自分の望む最期の在り方
とは何だろうっていう
イメージがまず、できていないと
保険証裏の
臓器提供どころの話じゃないんですね。
あれは、本来しないといけない話を
いきなり飛び越えちゃってる。
なんか恣意的なものすら感じます。
話がどんどん脱線してきました。真顔
長くなるのでまた、続きは
シリーズでアップしていきますね。
まだまだ続きます。
実は私、
生き方死に方医療の適正化
を想い、起業しました。
まだまだ形にはなっておりませんが、
いつか必ず形に仕上げます。

 

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